集団的自衛権への反対表明に「戦争が出来る国になってしまう!」という言葉があったけど、違和感がある。
「戦争出来ません」と言うことは好戦的な相手を誘惑する。
実際に戦争をするよりも予防する方が損害が少ない。
非武装を主張したり、法整備を怠ることは、予防をしなかったばかりにいきなり手術といった結果を招くことになりかねないのでは。
①「戦争できないのにやらされてしまう、巻き込まれてしまう国」の民衆は不幸だ。
第二次大戦で中立を宣言しても英独の戦いに巻き込まれたノルウェー。
ソ連の版図に組み込まれた国々は圧倒的な戦力差になす術もなく衛星国にされた。
②「戦争出来る。主体的に始める国」アメリカ、ロシア、中国etc核保有国
③「戦争出来る。主体的には始めない国」スイス、スウェーデン
④「戦争出来る。同盟関係に基づいて始める国」NATO加盟国
日本は④になろうとしている。反対するのなら①ではなく③を主張するべきではないのか。
或いは同じ④を目指すにしても別のやり方があると主張しないと、反対すること自体を目的にしていると疑われるのではないか。
③になろうとしたら軍事費の支出や武器輸出、国民の戦闘参加などきれいごとでは済まない。議論や負担の説明が必要になる。
周辺国、現同盟国の理解と同意を取り付ける難事業になる。
①だけど永久にほっておいてほしい。平和に暮らしたい。
その願いを叶えるには経済的(資源も技術もない)、軍事戦略的(他国軍の通り道周辺に国土を有しない)に価値がないことが条件になります。
日本は米露中3大国の狭間に位置します。
南太平洋に引っ越しますか。
しかし経済力もなく大国から遠隔の国は核の実験場にされたという残酷な歴史があります。
④は嫌だからと言って①を主張することは理不尽な暴力を是認することに繋がります。
③の他に代案はあるのだろうか。
④であっても「集団的自衛権」ではなく「国際協調主義の一環としての集団的自衛権」という定義にしてNOと言える立場を構築できるかにかかっているのでは。