政府に対して批判的なメディアは反対勢力の動向を白日の下に晒してくれますから温存すべきなのです。
政府寄りでない人は政府寄りのメディアの取材には応じません。
規制を厳しくすると逆に動向が掴み難くなります。
メディアの報道内容にすべての読者、視聴者が共感するわけではありません。
共感する人もいれば、反発する人もおり、態度を保留する人もいます。
視聴、購読していることが必ずしも支持と結びついているわけではありません。
視聴率が上がり、購読者が増えることはメディアの売上が上がることになりますが、売上が増えることと支持されることが一致しないことがメディアと他のサービス、商品と異なるところです。
「またこんなこと書いて」「紙面の無駄だ、もっと他に書くべきことがあるだろう」「社説の結論に合わせた数字ばかり集めている」と新聞談義が繰り広げられます。
メディアは権力を監視しているつもりでも、ある意味では読者、視聴者はメディアを監視しているとも言えます。
肯定的な記事は疑われ、批判的な記事は却って反発を強めて読者が肯定的になる場合もあり一筋縄ではいきません。
独裁国家の政府お墨付きのメディアに、政府寄りではない人のインタビューが載ることはないので、読んで国民が関心を抱くことはありません。
その結果、監視は秘密警察に頼らざるを得なくなり、動向を掴みきれなくなると蜂起で政府が転覆することもあります。
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公平を心掛けようとしても把握している事実が異なれば、結論に差異が生じることは避けられません。
取材相手の選択、取材する側とされる側の人間関係、取材と編集の関係がすべてのメディアで均一ということはあり得ず、事実認識も記者と編集者の人生観の影響は避けられません。
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報道に限らず、扇動に乗せられて自分達の生活を壊すことに加担させられないように、与えられた情報を鵜呑みにしないように、学校でのメディアリテラシーの授業を義務化する。
例えば同じ事件の扱いについて朝日、読売、サンケイ、日経、毎日を併用して(別に毎回5紙である必要はないが複数紙は必須)教材にする。
「〇〇新聞に〇〇が書いてあるのに、どうして××新聞には記事がないの」
「〇〇新聞の方が事実に近いのでは」「見出しと中身が違うんじゃない」といった授業が行われたら生徒も教育現場もメディアリテラシーが磨かれ、メディアに対するチェックが厳しくなり、次世代のメディアの発信側、受け手側のレベルを向上させ、扇動に乗せられない安定した社会の実現と継続に繋がると思う。