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nikoichixのブログ

新聞やテレビ、本を見て思ったことを綴っています。書いてみたらこんな展開になるとは思わなかった。まいっか。

ピンチでも冒険でもなかった桶狭間の戦い―信長に騙され続ける現代人。

桶狭間の戦い」は小説やドラマでは圧倒的に強大な戦力を持って油断していた今川義元を、織田信長が少ない兵力で急襲して討ち取る様が描かれています。

(永禄3年5月19日、1560年6月12日)

「今川軍4万5千人に対して、織田軍はわずか2千人で立ち向かい、大将の首をあげる大勝利を収めた。」

さらに「信長が偉かったのは桶狭間のような戦い方は二度としなかった。少数で挑む戦いを二度としなかった。一度の成功体験に溺れなかった。」と論評されます。

 

今川 70万石弱、 織田 57万石+港の関税収入

 

豊臣秀吉の検地 太閤検地「慶長3年検地目録」によると 

今川家の領地 遠江25万5千石、駿河15万石、三河29万石 全部合せて69万5千石。

秀吉の時代の検地の結果ですから当時はもっと石高は低かったことが想定されます。

(武田方の)甲陽軍艦「この3箇国(三河遠江駿河)はいずれも小国であるから、多く見積もって2万4千の軍勢である。」

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織田家の領地 尾張57万石。

石高だけを見ても、もはや圧倒的な差はありません。

さらに織田家には西日本と東日本を結ぶ物流拠点 津島港が領内にありました。

津島は木曾川の支流大川と天王川の合流地点にあり、尾張と伊勢を結び、尾張と美濃の玄関口でもありました。

 

上杉家の柏崎と直江津の関税収入は年間4万貫文だった。

4万貫文は10万石の大名収入に匹敵する。

しかし織田領の津島は伊勢湾に所在しその物流量は柏崎や直江津の比ではない。

 

港を押さえれば莫大な収益が上がる。

 後に信長は将軍を擁して上洛し京都を押さえたとき、足利将軍からの畿内5カ国の管領への推挙を断り、代わりに「堺」「大津」「草津」を所望した。

「堺」は当時、日本で最大の貿易港。

「大津」は琵琶湖水上ルートの京都側の玄関口。

草津」は琵琶湖沿岸の東海道中山道の合流地点。

交通の要衝を押さえれば莫大な関税収入が入ってくる。それを信長は狙った。

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桶狭間の時点で既に織田家の財力は今川家を上回っていた。

 

 小説やドラマでは今川は上洛して天下に号令をかけるために尾張に侵入してきたところを信長に撃たれた。という図式で描かれます。

織田家に財力で劣る今川家が天下に号令をかける?

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上洛も天下の号令も関係がなかった。知多半島の覇権争いだった。

 

桶狭間知多半島の根元に所在します。

知多半島は塩の産地で中世日本最大の窯業地域でもありました。

知多半島を領有することは相当な経済的価値がありました。

石高に表れない利益がありました。

 

織田軍は桶狭間の6年前にも今川軍を破っていた。

知多半島の覇権を巡って再び起きた(今川家が再度狙ってきた)のが桶狭間の戦いでした。

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どうして小説やドラマみたいな話が広まったのか。(織田方の宣伝)

 

信長陣営は、今川軍のことを6万人の軍勢と言っていた。

甲陽軍艦「総じて信長の家中では合戦をめぐっての嘘が多い。今川義元に勝ったときも今川家の軍勢6万人に勝ったという。

この3箇国(三河遠江駿河)はいずれも小国であるから、多く見積もって2万4千の軍勢である。」

大勢の敵を少人数で破ったと言えば聞こえがいい。

当時も今もイメージ戦略は大事。

話を盛るなんてのはよくある話。

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軍隊は分かれて行軍する。

 

今川軍が全体で2万なにがしかの人数がいたとしても、1隊あたりの人数は3~4千人。

今川義元のいる本隊3~4千人(全体の一部)を織田信長率いる本隊2千人(全体の一部)が急襲したというのが実態に近いのではないか。

 

これでは夢がない?

花より団子、馬車よりかぼちゃ、ロマンよりもマロン。

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油断しているところを急襲したのは事実。

 

信長の居城 清州から桶狭間まで20キロ、今川義元は殿軍(軍の一番うしろ)にいた。

信長軍は今川軍の後方から襲いかかったことになる。

清州と桶狭間の間にある今川方の鳴海城(合戦ではなく調略によって盗られた)を迂回して後ろに回り込んだから移動距離は40キロ以上、早朝に清州を出発して昼過ぎには桶狭間にいた今川陣を襲撃している。

尋常なスピードではない。寄せ集めの足軽でできる仕業ではない。信長は戦闘のプロを率いていた。当時の常識を超えていた。

 

今川義元でなくても、織田軍が来るまではまだ時間があると、戦闘前に兵士に休憩を取らせて弁当にしようと考える。

 

尋常でない行軍は経済力を背景に兵農分離を行っていたから。

農民兼任ではない兵士を雇うためには戦がないときも給料を払わなければなりません。

財力がない大名にはできない話です。

 

兼任の兵は戦がないときは家に帰って農作業です。

専業の兵は戦がないときも城下町で暮らし軍事教練に参加します。

こうして信長は当時の常識で尋常ではない速度で移動する軍を率いることができました。

後に信長配下の羽柴秀吉は尋常ではない速度で大返しを行いました。

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神話の独り歩きが犠牲を生む。

 

「今川軍4万5千人に対して、織田軍はわずか2千人で立ち向かい、大将の首をあげる大勝利を収めた。」

信長公記」の小人数で大軍を倒すことができたという宣伝を真に受けて後世の人は少人数で大軍を負かすことができるという神話を育んだ。

「そんなの無茶だ」と言っても、「無茶ではない桶狭間という前例がある。」

「信長公のような奇跡の大勝利を得られるはずだ、気合いが足りない。」

 

GNPが10倍の相手に戦争を仕掛けることができたのは、織田信長が兵力20倍以上の今川に勝ったという神話(実態は織田方の宣伝)を信じていたからではないのか。

 

リアリズムでは面白くない。話を盛った方が面白い。

話を盛った桶狭間が描かれ続けている限りは1560年から騙され続けていることになります。

織田信長に騙されていたということは今川義元と同じということです。

戦に負けるのは当然です。

 

それではまた。

 

 

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