nikoichixのブログ

新聞やテレビ、本を見て思ったことを綴っています。書いてみたらこんな展開になるとは思わなかった。まいっか。

靖国合祀で(周辺国とは無関係に)却って眠れなくなった東條英機元首相―立場が人の運命を狂わせる。

連合軍に逮捕されなくても日本人に裁かれる運命であった。

 

開戦4ヶ月前の若手官僚、軍人、企業人の意見具申を黙殺。

 昭和16年12月8日の開戦よりわずか4ヶ月前の8月16日、平均年齢33歳の総力戦研究所のメンバー、霞が関の各省、日銀、丸の内・大手町の民間企業、新聞記者から集められた30人ほどの若手エリートらはアメリカと戦った場合のシュミレーションを重ね、そこで出された結論は実際の太平洋戦争での経過とほとんど同じだった。最後にはソ連の参戦を招いて敗北する。と

日ソ中立条約は反古になると若手エリートらは見抜いていた。

 

「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは君たちの考えるようなものではないのであります。」

その結果が死者300万、全国焼野原、全軍降伏武装解除(陸海軍の解体)

 

四方の海みなはらからと思う世に など波風の立ちさわぐらむ

 

暗に平和維持を望まれた陛下の御意思は守られなかった。

「戦争の大義名分は如何に考えているのか」

「目下、検討中でありまして、いすれ奏上致します」

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敵と戦うことよりも味方を叩くことに奔走

 

首相辞任前の5ヶ月間は首相、陸相参謀総長を兼任。

短期間で終わったものを含めると外務、内務、陸軍、文部、商工、軍需

その結果、首相官邸にいるのはわずか30分、各省庁を巡り歩いて、その途中で街角のゴミ箱を開けてみたり、火の見櫓に登ってみたり。

新聞は「東條さん民情視察」と持ち上げ、大衆の受けはよかった。

 

総理の仕事をする時間がなかった。戦争指導をする時間はなかった。

2・26事件のときに満州で少しでも危ないと見た人間を一網打尽にして見せて天皇の信任を得た。

憲兵として陸軍大将として陸軍を抑えて戦争をしないために首相に任命された、アメリカと戦争をするつもりはなかったから戦争屋は必要とされなかった。

根っからの憲兵であった、会戦のプロではなく取り締まりのプロだった。

最初から戦争指導力は期待されていなかった、戦争指導力を期待されていないのに戦争を始めてしまった。もはやせかせか歩き回るしかなかった。

 

所轄官庁の中堅幹部が来客と話をしていて自分にお辞儀をしなかったことに腹を立てて免職にする。

都内を行進している陸軍の小部隊の行進の仕方が悪いと注意したら、指揮官の少尉が東條と気付かず横柄な態度だったので、原隊へ怒鳴り込む。

敵ではなく日本人から憎まれることになった。

 

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岡田啓介「戦況はぱっとしないようだが」

東條英機「あなたは必勝の信念を持たないんですか」

 

若槻礼次郎「今年は稲の作柄がどうも心配だが」

東條英機「われわれ閣員は何も食わなくても、一死奉公でやるつもりです」

精神論に終始した。

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恣意的な報復

 

(昭和19年2月23日 毎日新聞 1面)

「勝利か滅亡か、戦局は茲(ここ)まできた」「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋航空機だ」

本土決戦だと女性、子供に竹槍で訓練させる。そんなことで勝てるわけがない。という批判です。

 

記事を書いた37歳で近視の新名丈夫記者を陸軍の一兵卒として(懲罰)召集しました。

(本来であれば徴兵検査は不合格になるところを恣意的に合格にされてしまいました)

海軍が「大正の兵隊(大正時代に徴兵検査を受けた兵隊)をたった一人取るのはどういう意味か」と問うた。

新名記者は除隊となりました。(バツが悪かったのか)

しかし、その代わりなのか新名の出身地香川から250名が召集され硫黄島に送られました。硫黄島守備隊は全滅しました。

新名記者は自分の記事のために郷里の250名の命を失うことになったと後悔させられることになりました。

 

「海軍の計算によれば、斯(かく)の如く一東條の私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者72人に及べりと。正に神聖なる応招は、文字通り東條の私怨を晴らさんが為の道具となりたり」細川日記 昭和19年10月1日 (高松宮様(昭和天皇の弟君)の私設情報係 細川護貞氏)

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「勤王に二種あり。一つは狭義のもの、二つは広義のものにて、前者は君命是従うことにて、陛下より和平せよとの勅命あれば是従うことなるも、後者は然らず、国家永遠のことを考え、たとい陛下より仰せあるも、必ず諌め奉り、度々諫言し奉りて御許しなくば、強制し奉りても所信を断行すべし、余は是を取る」

(前者は陛下より和平せよと命じられたら和平に努める。後者は国家の先々のことを考えて陛下より和平をせよと命じられても、お諌め申しあげて和平は行わない。お諌め申し上げても陛下がお認めにならないならば、陛下を幽閉して断固として和平は行わず戦争を続行する、私は後者を取る)

「強制し奉りても所信を断行すべし、余は是を取る」

言うことを聞かない天皇は幽閉して別の皇族を天皇に立てる。

 

思い上がりに怒る皇族

 東條が首相の地位にある限り終戦の見込みは立たない。

高松宮「もうこうなったら東條を殺すしかないな。誰かやる奴はいないか」(細川日記)

陸軍の東條暗殺未遂事件

 

大本営参謀 津野田知重少佐が中心になって暗殺計画を立て、決行日は昭和19年7月25日と決められていた。

大本営参謀の三笠宮に事の次第を打ち明けると賛同を得たので、さらに病気療養中の秩父宮にも面会して賛同を得た。

津野田らは山形県鶴岡市に隠遁している石原莞爾(東條と衝突して左遷された)を訪ねて献策書を見せた。石原は献策書に「全然同意す、必要なるギセイはやむを得ざるべし、斬るに賛成」と書き加えた。

 

東條が乗ったオープンカーを襲撃して、手榴弾を投げる予定だったが事前に計画が漏れて実行グループの津野田らは逮捕された。

しかし翌年 昭和20年3月の軍法会議では津野田らは失効猶予付きで放免された。

石原莞爾は責任を問われることもなかった。

軍法会議の判士らも反東條であった。

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「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残す勿れ」

(捕虜になるなら自決せよ)

「米兵一兵たりともサイパン島には上陸させない」と強弁するも全島が占領され守備隊は玉砕、民間人までも海に飛び込んで死ぬという悲惨な結果となった。

 

岸信介軍需相「サイパンを失ったら、日本はもう戦争はできない」

東條英機首相「お前のような文官に何がわかるか」

サイパンから発進したB29の本土爆撃が頻繁に行われるようになり軍需生産は計画通りにできなくなった。

軍需大臣に辞職を迫る、憲兵岸信介の家に乗り込み軍刀をつきつける。「東條さんが右向け右と言ったら、その通りにするのが閣僚の努めだろう」「黙れ兵隊、お前のような者がいるからこの頃東條さんの評判が悪い」脅すも抵抗され辞任拒否により閣内不一致により東條内閣は総辞職となる。

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総理辞任直後に予備隊編入を願い出る。

 

大将の地位にあるのだから総理を辞任したとなれば外地の戦場で指揮を執る立場になる。多くの若者を戦場に送りだしたが、今度は自らが戦場に赴くことになる。

しかし予備隊に編入となれば内地に留まることになる。保身を疑われた。

 

鈴木貫太郎内閣(終戦内閣)成立前の恫喝

 

「国内がいよいよ戦場になろうとしておる現在、よほど御注意にならぬと陸軍がそっぽを向くおそれがある。陸軍がそっぽを向けば内閣は崩壊する」

和平を画策する内閣だったらただではおかないという意味か、自分はもう陸軍を抑えることができないという意味の裏返しの強がりか。

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戦争回避の機会を潰す

 

山本五十六「目下ワシントンで行われている日米交渉が成立した場合は、出動部隊に引き上げを命ずるから、その命令を受けたときは、たとい攻撃隊の母艦発進後であっても、直ちに飛行機を収容して引き返してこい」

南雲忠一「それは無理です。第一士気にかかわります」

山本「百年兵を養うを何と心得ているか、この命令に従えない指揮官は即刻辞表を出せ、ただ今から出動を禁止する」

 

12月7日 ルーズベルト大統領の天皇宛親書

「陛下と私が日米両国民のためならず、隣接する国々の人類のためにも、両国間の伝統的友好関係を取り戻し、世界にこれ以上の死と破壊をもたらすことを防止する、神聖なる義務を持つことを確信いたします」

東條「電報が遅く届いたからよかったよ。もう1日2日早く着いていたら、またひと騒ぎあったかもしれない」

「またひと騒ぎ」とは天皇が和平に動くことを東條が危惧していたということ。

東條夫人かつ子「陛下が開戦の勅書になかなか判を押されないので、昨夜、主人は枕元に刀を置いて自決の用意までしていたのです」

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ハルノート 支那からの全面撤退に満州は含まれていなかった。

 

昭和16年4月 日米了解案「満州国を承認する」

東條内閣は支那満州は含まれていると解釈して開戦やむなしと判断した。

(開戦の理由になった。)

日米了解案との照合を求める手続きを行わなかった。柔軟性に欠けていた。

あれはあれ、それはそれ、これはこれ と分けて考えるアングロサクソンの思考についていけなかった。

 

満州人を野蛮人扱いしてきた中華歴代王朝

 

万里の長城は現在中国の国内にあります。異民族の侵入を防ぐために築かれました。

匈奴とか鮮卑という差別的な言葉で称され蛮族の住む地と見做されてきました。

北方から侵入され清朝が樹立すると人々は清の流儀で辮髪にさせられました。

長い歴史の中では ほんの一時の風習でした。

日本のちょんまげ のような伝統ではありませんでした。

清が滅亡するとたちまち辮髪をやめました。

明の時代は北部は韃靼(タタール)、西部は烏斯藏(ウスツァン)という別の国でした。

 

明の時代までは伝統的に別の国でした。

米国は中国における権益を狙いながらも、ソ連の南下を防いで赤化を防ぐという目的では日本と一致していました。

そのためには日本が満州を支配していた方が都合がよかったのです。

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東京裁判

 

キーナン判事「1941年12月、戦争を遂行するという問題に関する天皇の立場と、あなた自身の立場の問題に移る。あなたはすでに法廷に対して、日本の天皇は平和を愛することをあなた方に知らしめたと言っているが、これは正しいか」

東條英機「もちろん正しい」

キーナン判事「そうしてまた、日本臣民たる者は何人たるも、天皇の命令に従わないということは考えられないと言った。それは正しいか」

天皇有罪の決め手になりかねない重大な発言であった。国民が戦ったのは天皇の命令という意味に受け取られかねない。

 

法廷が閉廷してから打ち合わせの中で弁護士から指摘されて東條は言い直します。 

東條「それは私の国民としての感情を申し上げた。天皇の責任とは別の問題です」

開戦という国政に関する一大事は、内閣と統帥権の責任で為した最後の決定であり、天皇が拒否権を行使されることは、憲法上も慣行上もなかったと陳述する。

「ゆえに昭和16年12月1日開戦決定の責任も、また内閣閣僚及び統帥権の者の責任であって、絶対的に陛下の御責任ではありません」

人生の最後になっての面目躍如でした。

 

処刑日は12月23日 皇太子(現在の天皇)の生誕

執行するのは連合軍側の極東軍事裁判所であるが、生誕を祝う日に東條の処刑を行うとは、陛下はお許しになっていないということを伝えようとする意図か。

 

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1人だけが悪いのではない、1人だけではできない、周りも悪かった、多くの政治家も軍人も関与した、とは言うものの

東條家は米軍からも日本人からも敵視された。東條家には商品を売らないという食料店もあり、妻かつ子は庭を開墾して野菜も鶏も飼育して自給自足生活をした。  《佐藤早苗 「東條英機 封印された真実」》

東條の息子、つまり由布子氏の父は、復員してすぐに会社から辞職勧告を受け退職した。 小学校に入学した弟は、担任の女性教師に「東條君のお祖父さんは、泥棒よりも悪いことをしてきた人です」と級友の面前で言われた。

文芸春秋」1994年8月号 岩浪由布子(東條英機の嫡孫)

本人が死んだ後も家族にここまでするか、他にも戦犯(連合軍指定の)がいるのになぜ東條家がここまでされるのか。

戦時中の憲兵による締め付けが復讐心を育んで家族にまで累が及んだのか。

 

憲兵による取り締まり、懲罰的な徴兵でアメリカよりも陸海軍・マスコミ・大衆を敵に回していた。

連合軍に逮捕されなければ日本人に裁かれる運命だった。

 

立場が人の運命を狂わせる。

 

首相にならなければここまで憎まれることはなかった。戦争を生き残っていたら平穏な戦後生活をおくっていたかもしれない。

外国人だけではなく日本人も敵にしてしまった。

死ねばみな仏という意見もあります。

でも神社です。

 

周辺国がどう言おうと、A級戦犯であろうがあるまいが、靖国神社参拝は戦死者の御霊を拝みに行くのであり、東條さんのみたまも拝んで来ようという気にはならない。

霊魂というものがあるのなら合祀されて戦場に送った英霊に囲まれて居心地が悪くはないのだろうか。

合祀された結果、周辺国に関係なく日本人に未来永劫、研究されて話題にされてひとり静かに眠ることが許されなくなった。

周辺国が何を言おうが言うまいが日本人に忘れられないために合祀された。

 

あの戦争を忘れないためにここ(靖国)にいる。

 

 

東条英機と阿片の闇 (角川ソフィア文庫)

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昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)

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大人の見識 (新潮新書)

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素顔のリーダー―ナポレオンから東条英機まで (文春文庫)

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東条英機 封印された真実

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