nikoichixのブログ

新聞やテレビ、本を見て思ったことを綴っています。書いてみたらこんな展開になるとは思わなかった。まいっか。

『殿様商売』はつらいよ―『廃藩置県』が進んだ理由

殿様商売といえば儲ける努力や工夫をしない強気の商売と言われています。

しかしドラマや小説、歴史の本では殿様はそんなに気楽な立場ではありません。

 

キレ者ぶりを発揮すると幕府に警戒される。家来の信頼を失うと押し込められる。

百姓一揆が起きると領地経営の不始末として国替え、跡継ぎで揉めていることが発覚するとお家騒動で取りつぶしに合う。

 

水害対策等の河川工事を命じられ費用も持たされる。公家の饗応の役目を負わされる。

不始末があれば始末が待っている。いかにうまく役を逃れるかが江戸家老の腕の見せ所。

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妻子は人質として江戸屋敷に滞在となり、参勤交代で江戸に上ってようやく会える。

参勤交代は多大な出費を強いられ、藩の財政を圧迫しました。

領地の経営能力を奪ってしまっては本末転倒になるので立地条件(江戸からの距離や藩の規模)を勘案して江戸での滞在期間等の緩和策がとられました。

生かさず殺さずです。

『一方で薩摩や長州のように密貿易を行う藩もありました。薩摩藩琉球を通じて清と、長州藩は朝鮮を通じて清と密貿易を行い資金を蓄えました。大陸に近いという地の利がありました。』

『のちに文久の改革。(文久2年 1862年 14代将軍 家茂)で大幅に緩和されました。

文久の改革:参勤交代の頻度を3年に1回とし、人質として江戸に留め置かれていた大名の妻子の帰国を認めました。

嘉永6年(1853年)にペリーが来航し、圧倒的な武力を背景に日本に開国を迫りました。

薩摩藩主の父 島津 久光および朝廷の公武合体派公卿らの主導で出された勅使の圧力の下、徳川幕府は体制維持のため各藩に沿岸警備を担わせることを名目として財政負担の緩和策を行いました。

桜田門外の変安政7年1860年)で大老 井伊直弼が暗殺されたことにより、権威を失墜しつつあった幕府にもはや阻止する力はありませんでした。』

 

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徳川将軍の長寿は初代 家康(享年75)と十五代 慶喜(享年77)の2人

 

 

家康は亡くなる前年まで大阪冬の陣、夏の陣で戦いました。

慶喜は将軍に就任した翌年(31歳)に王政復古が宣言され、薩長に敗れ江戸開城、上野寛永寺に謹慎の後、水戸へ行き蟄居、明治元年 32歳のときに駿府に移住しました。

2人とも将軍として江戸城に滞在した期間はわずかでした。

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将軍家に相応しい女性といえば身分と品格を備えた公家、宮家の娘とされ、多くの姫君が正室として大奥入りしました。

江戸と京では言葉もアクセントも大幅に異なる。睦言を関東弁と京言葉で交わしたのだろうか。

 

関東人はアホと言われると胸にグサリと来る。関西人はバカと言われると人間を否定されたように感じてしばらく立ち直れない。

将軍と姫君でアホ、バカはありえないが言葉のあやのギャップは計り知れない。

 

しかも睦言を聞きとり記録する係までいる。夜の伽(トギ)記録係です。

箱入りで育てられたお姫様のショックはいかなるものか。

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食事は毒見が済んでからとなるので、出来たて焼きたて熱々なんて食べる機会がありませんでした。

 

なんてストレスフルな生活なのでしょう。

殿様商売は「ストレスフルな商売」という意味にした方が合ってるんじゃなかろうか。

「苦しゅうない」と鷹揚に構えているものの実情は苦しい。

それが殿様商売という意味に国語辞典が書き換えられる日ははたして来るのでしょうか。

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廃藩置県は薩長を中心とした明治政府が強力に進めたということになっています。

 

学校で受けた教育からは廃藩置県は明治政府が強権を以て実行したような印象を受けた。

しかし300藩の殿様が「殿様を続けたい」と願っていたら話は進みません。

300藩が抵抗したら実現不可能です。それでも強引に進めたら内戦になります。

 

殿様はいい話があるなら、殿様をやめても生活が成り立つなら殿様をやめたいと思っていた。

大名は借金を抱えていました。その借金を明治政府は帳消しにしました。

新政府が大名に代わり商人に返済しました。

借金がなくなった大名は明治政府ができたことで逆にほっとしたんじゃないか。

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明治政府は大華族令を施行し、殿様を伯爵や侯爵、男爵、子爵に列し社会的な地位を与えました。

借金がなくなり、官名を与えられ禄を与えられて嬉々として領主の地位を捨てた大名もいたのではなかろうか。

(薩摩の殿様 島津 久光は天下を取ったつもりになっていたから怒った。)

 

皮肉なことに幕府の人質政策のおかげで大名は江戸育ちでしたので、東京で生活することに何の抵抗もありませんでした。

東京の屋敷で生活し消費生活を謳歌するようになりました。

 

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しかし廃藩置県で家来は失業します。

 

憤慨する武士もいた一方で欧米列強の軍事的脅威が切実な状況でした。

植民地にされるかもしれないという危機感が先に立ち、知識のある武士は欧米に追いつき並ぶことを考えて新政府の富国強兵に協力し従事しました。

 

明治政府を支えた旧大名家

 

新政府から俸禄を支給され、明治9年 俸禄に代わって金禄公債が支給されました。

これは一種の国債でいわば退職金であるが、その金額は一万石で一万円 現在価値でおよそ一億円で金利が5%であったから旧大名はこの国債の利子だけで生活が出来ました。

旧大藩の大名ともなれば利子だけで莫大な金額(50万石なら50億円の金利5%)となり、さらに地元の城や屋敷、山林、江戸屋敷も残されて大資産家となりました。

資産を元手に事業を始めたり、地域の殖産興業、名産振興、地方銀行の設立に関わりました。

産業の振興は旧藩士も含めて雇用の受け皿となりました。

 

政治の面でも国会開設にあたり貴族院が開設され旧大名家から貴族院議員が輩出し政府を補佐しました。

 

農業や商売を始めた元武士、教師や警察官、軍人になった元武士もいました。

 

新時代に適応できずに失職し徒党を組んで反乱を起こす武士もいましたが、少数派で最新の武器を持っていた新政府には太刀打ちできずに鎮圧されました。

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商売を始めた元武士は元武士というプライドが先だって頭を下げることができない人もいました。

冒頭に挙げた「儲ける努力や工夫をしない強気の商売」です。

実際に行っていたのは元殿様(藩主、旗本)ではなく元家来です。

「儲ける努力や工夫をしない強気の商売」は時代の変化に適応できなかった元家来の商法でした。

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これとは別にサムライ商法というものもあります。

資格を取ったら資格を必要とする仕事を提供しますと言って通信教育費用を支払わせる。資格は〇〇士と士がつくので 士商法(サムライ商法)と呼ばれます。

国家資格のほかに業者自らが設けた資格もあります。

国家資格と思い込んだら国家資格ではなかった。名前が国家資格に似ていた。

短期間で合格できます。(個人差があるはず)

合格まで講義〇〇時間、〇〇回。

難易度が低いのに回数が多くないか。期間が長くないか。

難易度が高いのに回数が少なくないか。期間が短くないか。

講座を受講すれば資格が与えられます。(受講するだけでOK?習熟度はみない?)

資格取得後に仕事を提供しますと言って取得を促す。

実際に仕事を請け負うためには機材の購入が必要といって購入を促す。

 

殿様とサムライで大違い。

それではまた。

 

徳川将軍家十五代のカルテ (新潮新書)

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