我が子がいじめに遭っている、遭った。と親が学校や自治体に訴えても暖簾に腕押しだった。調査をしたが、いじめの事実は確認できなかった という報告発表が幾度となく繰り返されます。
その度に自治体は、学校は、教育委員会は何をやっているのか。という批判の報道が繰り返されます。
これは不思議なことではありません。
訴えた相手が 元いじめっ子 であれば当然の帰結なのです。
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いじめられた側はいじめられたことを覚えていると言います。
いじめた側はいじめた記憶がないと言います。
いじめる側は自分の行為や言葉で相手が傷ついているという認識はありません。
自分がいじめているとは思っていません。悪気がありません。
自分は正しいことをしていると思っている場合もあります。懲らしめてやっている、教えてやっている。と
自分がかつていじめっ子であったという自覚がない元いじめっ子がいじめの対応を求められても、いじめられる側の気持ちがわからないのですから話が通じないのは道理です。
人はそうそう変われるものではありません。大人になったから、成人式を迎えたから頭の中身が入れ替わる。そんな人はいません。
文部科学省の指導が入ったら、一転していじめの事実を認める。
悪ガキがいたずらしているところを大人に見つかったから謝るのと似たような行動パターンです。
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訴えた親までも自治体の対応に傷ついたと報道されます。
しかし、対応した側は傷つけようとは思っていません。自分の言葉が相手を傷つけているということがわからないのですから。
頭が悪いのでもありません。フツーの人です。
頭がいい悪いの問題ではありません。自分と違うのはバカだと決めつけるものではありません。使う脳の領域が違う人だと思えばいいのです。
報道でクローズアップされると、つい、こんなのわかって当然だ!と憤ったところで、実際に自分自身に降りかかった時に常にわかって対応できるという保証はないのです。
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他所の組織、職場での事例が報道されても同じようなことが繰り返されるのは、なぜなのか。
現場が疲弊して対策を立てる余裕もないのではないか。報告書を作るのに忙しい、生徒に構っている場合ではない。と
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自分が元いじめっ子であると自分で認めることからすべてが始まる。
「いじめは絶対ダメ」というスローガンがスルーされるわけ。
絶対ダメと言うからには、大人の鑑である、品行方正である、悪いことをしたことがない、いじめなんてとんでもない。
保育園でも幼稚園でも小学校でも中学校でも高校でも大学でも、いじめたことはありません。
そうでなければ子供に示しがつかない。
上から目線で いじめは絶対ダメという。
そんなつもりはない。そんな極端なことを言ったつもりはない。
ダメを強調するために ”絶対” という言葉をつけただけ。
絶対ダメだって。へえ 一度もやったことないんだ。そんな人がいるわけない。ニュースでセクハラ パワハラ 過労自殺とか言っている。いじめは絶対ダメと言っているのに大人がいじめをやっているじゃないかと反発される。
耳を素通りして心に届かない。
各地で同じような話が繰り返されるのは道理なのです。
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元いじめっ子であることのメリット
親に、先生に、大人に、見つからないように悪さをする方法を知っている。
お前らのやることはお見通しだ、大人をなめるなよ。それが大人の役割。
私は悪い事をしたことがありません なんて大人がカマトトぶっていては悪ガキに先を越されるばかりです。
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大人がいじめをしていたことを無理に隠す必要はない。
いじめは今の子供だけの問題で、今の大人が子供の時にはまるでやっていなかったかのようにふるまう。上から目線で「絶対ダメ」と。
絶対ダメだって? 大人はやっていないのか、やったことはないのか。スルーされて届かない。同じことが繰り返される。
そんなはずはない、嘘くさいと反発されて逆効果になっている。
でも言ったら怒るから言わない。と
そんなことはない!子供は素直だ!思っていることを正直に言ってくれる!
そう言う人は子供の時、実際にその通りだったと言い切れるのか?
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素直とはどういうことか
「素直じゃないな」はセクハラに、「素直になりなさい」はパワハラ用語に転落した。
彼氏いないの?さびしいんだろ。 A子に先を越されたな、くやしいんだろ。
(何勘違いしてるの? うざ めんど。)「別に」
「別に」かよ、素直じゃないな。
1人で黙々と絵を描いている。素振りをしている。リフティングしている。
1人でさびしくないか。みんなと一緒にやらないの。
(集中できない。空気読めよ、うるさい おっさん おばさんだ) 「別に」
「別に」だって。生意気な、素直じゃない子だ。
私がさびしそうと思い込んだから さびしいに決まっている。
人としての自然な感情の動きは素直ではない。私の尺度に合わせるべきだ。
あなたのためを思って言っているのに(有難迷惑)その態度は何だ。
素直であるかどうかは私(お節介なおっさん、おばさん)が決める。本人が考えることではない。
「素直になりなさい!」
”素直になりなさい”は、その素直さが気に入らない、私の尺度に合わせるべきだ。の言い換えになってしまいました。
元々は説教の言葉が、自己満足の道具として濫用された結果、よくない意味の言葉として揶揄されるネタに堕ちてしまいました。
ひねくれている。とは
素直に自分の気持ちを話したら、素直じゃない、素直になりなさい。ひねくれている。と言われてしまうのはなぜか。
ひねくれている。と人を糾弾する人は自分こそが素直であると信じて疑わず、自分の尺度から外れるものは ひねくれている とレッテルを貼らずにはいられないのです。
暴力的なことをしているのに、その自覚がない。いいことをしていると思い込んでいます。
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アメリカに移住した人がいました。日本はネチネチしているからもうイヤだと言いました。
nikoichiはどっぷり浸かっていたので気がつきませんでした。
そうなのか!? と思いました。
日本人のネチネチは諸刃の剣です。
よい意味の場合は 粘り強い と言われ、よくない意味の場合は ネチッコイ と言われます。
ネチネチとしつこいから故障、不具合の少ない、高い品質の製品とサービスを実現できるのです。
これでもか、これでもか まだまだ と止め処なく追及するから実現するのです。
それに対して あっけらかん とした国民性の国の製品は故障が多い。
ネチネチしていない、性分ではない、まいっか、このくらいで と打ち切ってしまうからではないのか。(当人は十分やったという認識)
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大人も子供の頃は いじめ 意地悪をしたことはある。でも自殺するまで追い詰めたりはしなかった。
どうして死ぬまでやるのか、とことんやらずにいられないのか、程々でやめることができないのか。
そこから始める。
死んだら可能性が消える。死なせたら死なせた側にもレッテルがついて回る。
“いじめは絶対ダメ” と言う前に “死ぬまで追い詰めたらダメ” が先ではないのか。
「絶対」をつけると死語になります。
それではまた。