民主制は実は責任分担、独裁制は責任集中
民主主義国家の場合は、選挙や野党やマスコミがあることで寧ろ政府の責任を分担しているとも云えます。
野党がだらしない とか マスコミの報道が偏っている とか言われて すべて政府が悪いという話にはなりません。
国民も選挙の投票に行かなかったり無関心でいると自己責任と言われます。
独裁国家の場合はすべて政府が決めるから良いことも悪いことも(口に出せなくても)政府のせい、不満の先は常に政府ということになります。
不満を逸らすためにスケープゴートを仕立てたりします。
選挙がないので、政権交代はクーデターという手荒な手段が使われたります。
★★★
民主主義国家は選挙のこと、支持団体の圧力を背景に主張します。相手国も同じ事情で主張します。その中でお互い様で妥協が生じます。
独裁国家が妥協すると、妥協=政府は力がない ということになります。
選挙がないのだから、報道の自由がないのだから、責任の分担はない。すべて政府のせいになるので、妥協は許されない。
★★★
民主制と独裁制の失脚の相違
民主主義国家での失脚は失業です。しかし捨てる神あれば拾う神もあります。
独裁国家での失脚は、本人も家族も収容所に送られたり、処刑されたり、命にかかわります。
やめたら、弱気を見せたら地位を保てない、失脚する。やめるわけにはいかない。
やめてくださいと言えない、言えば失脚する。
やめる判断も止める判断もできない。誰も言えない。
☆★☆
やめろ やめてと言ってやめるなら誰も苦労しない。
やめろやめてと言ったから、言われたからやめるという話にはならない。
むきになって行動をエスカレートさせたり、止める人や団体に向かって逆ギレしたりします。
☆★☆
押したり引くそぶりを見せたりして相手の足下を見る。
相手はひとりじゃない、お互いに牽制し合っている、それを利用する。
話し合おうとすると話し合いをするふりをする。
喧嘩をしたくない相手と見ると喧嘩をしないふりをして時間を稼いで喧嘩の準備をする。
喧嘩の準備ができたから相手は手出しができないと強気に出る。
みんなが喧嘩はダメと言ってくれる、止めようとする。だから相手は手出しができない。
相手が手出しできないうちにもっと強くなる。誰にも手出しができない存在になる。
☆★☆
相手側で意見が分かれる
喧嘩はいけないから言い分を聞こうとする派 と 言い分を聞いてはいけないと言う派に分かれる。
どんなに理不尽な要求をされても喧嘩はいけない派 と 喧嘩を避けて理不尽を通してはいけない派 に分かれる。
もう無理だ仕方がない言い分を通そうとする派 と 無理だ仕方がないで終わらすな言い分を通すな派 に分かれる。
時間をかけて話し合いをしよう派 と 時間稼ぎをさせるだけだ派 に分かれる
和解を求める派 と もう騙されるな派 に分かれる。
それはよくないことなのか。
☆★☆
反対意見は補強材になる
反対意見は理論武装の補強の動機になります。
反対されること自体が既成事実になります。
反対意見に反発する人が応援に回ります。
反対意見があることが逆に推進力になります。
反対がない状態よりも寧ろ強い力になります。
悪いことではない。
意見が違うからといって全人格を否定するのはルール違反。
意見が違うからといって全人格を否定するのは口先でどんなに博愛を謳っても意見とは裏腹の独裁脳です。
☆★☆
一枚岩はいい意味なのか
一枚岩は強固な団結や組織にたとえられます。いい意味に聞こえます。
一枚岩でなければ崩れ落ちるところがあります。
一枚岩は落ちるときは全体が転げ落ちます。
一億総玉砕で一枚岩だったら今の日本はありません。
本土決戦・徹底抗戦で戦争が長引いてアメリカとソ連に分割されて南北に分かれていたでしょう。
立憲君主制(天皇制と議会民主制)ではなく資本主義国家と社会主義国家に分かれて天皇制が存続できなかったかもしれません。
徹底抗戦を叫ぶ側と和平を探る側に分かれていた、一枚岩ではなかった。
☆★☆
主流派と非主流派に分かれるのは悪いことなのか
まとまりがないと批判される。
お互いに牽制し合う、足下をすくわれないようにと自浄作用が働く、油断しないようにと交渉力を磨く、競争する。
競争がなければ、牽制する相手がいなければ腐敗する。悪いことばかりではない。
意見が違うのに誤魔化して和気あいあいのふりをするのは健全なのか。
☆★☆
やめると言わない、やめてくださいと言わない、そんな一枚岩が強いと言えるのか。
やめると言わない、やめてくださいと言う、それが弱いと言えるのか。
やめてくださいと言うには勇気がいる。
やめると言う、やめないでくださいと言う、それが弱いと言えるのか。
やめないでくださいと言うには仁義がいる。
一枚岩でなくてもいい。
それではまた。