条文に書いてあるからダメでは条文に賛同できる自分というものがない
“〇〇条に書いてあるからとにかくダメ“
この言い方では聞いた相手は他人事になってしまいます。
(いいと思う理由が言えないんだ。
いけないと思う理由が言えないんだ。
何条に書いてあるからではなく、自分の言葉で、理屈で説明してよ。
先生が、パパが、ママが言ったからダメと言ってるのと変わらないじゃないか。)
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理由も背景もなく条文がポッと出てきたりはしない
法案が作成されるのには理由があります。歴史的、社会的要請や背景があります。考案者の思考の過程と関係者の議論を経て提議されます。
つべこべ言うな、理由なんかどうでもいい、そんなことは知らなくてもいいし、考えなくてもいい、書いてあるんだからその通りにしてればいいんだ、という態度には敬意も尊重の精神もありません。
(そんな言い方してないよ)
してなくても理屈は同じです。利用されてしまいます。
「ホント感じ悪いよね」(ポピュリストのささやき)
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“23条違反だ” “通信の秘密を侵すことになる” では他人事になってしまう
利用者の〇〇さんは〇〇なサイトにアクセスしてる、〇〇な言葉で検索をかけていると逐一チェックされる。
マスコミの、出版社の〇〇という記事にアクセスしたとチェックされる。
〇〇な趣味、〇〇な思想傾向とカテゴリー分けされていいと思いますか、
行き過ぎを防ぐための法の整備が新たに必要になる。更に実効性を持たせるための法の整備も必要になる。という言い方をされたら自分事になる。
〇〇条に書いてあるからダメでは、言っている本人は内容を吟味した上で、本当にいいと、いけないと、理屈でわかって言っているのかなと疑われてしまいます。
条文がないことに対しては、目の前で不合理なこと理不尽なことがあってもモノが言えないんだ モノを言ってはいけないと思っているんだ と思われてしまいます。
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ロシアはプンプン!事件
文化3年(1806) 十一代将軍 徳川家斉の時代
鎖国の日本に公式に通商を求めてきた最初の接触はロシア―アメリカのペリーじゃなかった
寛政4年(1792)ロシアが保護した大黒屋光太夫ら日本人漂流民を伴って根室に来航したラクスマンは通商関係樹立のために江戸に赴きたいと要求しました。
時の老中 松平定信はラクスマンの船が江戸に現れる事態になれば、将軍のお膝元である江戸が大混乱になるばかりでは済まず、幕府の権威が損なわれることを危惧しました。
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国法書と信牌(シンパイ)を与え一旦お引き取り願う
松前に滞在するラクスマンに国法書「通信なき異国の船が日本の地に来るときは召し取るか、海上にて打ち払うのが 古(いにしえ)よりの国法である」と信牌(長崎への入港許可証)を与えた。
通商要求を拒絶する代わりに長崎での交渉が可能であることを示唆しました。
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ロシア使節の再来日は12年後
文化元年(1804)松平定信が老中の地位を解かれた後、ラクスマンの外交交渉を引き継ぐ名目でレザノフが長崎の出島に到来しました。
ロシア皇帝(アレクサンドル1世)の親書を幕府役人に渡し、改めて日本との通商を求めました。
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松平定信のいない幕府首脳はフリーズ(固まる)
レザノフへの回答をずるずると引き延ばし、長崎に留め置くというその場しのぎの方策をとりました。
そして半年後
「我が国は清(中国)、琉球、オランダと往来しているが、その他の国とは通信・通商しないのが国是である」と回答しました。
皇帝の親書を持ってきたのに、半年も待たせた揚句の通商拒否と国外退去でレザノフは激オコになります。
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ワケワカンナイヨー状態のレザノフ
将軍の武威を示せば大人しく引き下がるのがあたり前。
そんな理屈は日本人にしか通用しない。
控えおろう!と言われて葵の御紋にハハァーと平伏するのは日本人だけ。
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ロシア軍艦の襲撃―露寇事件
文化3年(1806)9月
レザノフの指令を受けたロシア軍艦ユノナ号が樺太南部の松前藩の施設を襲撃します。
翌文化4年
ロシア軍艦2隻が択捉島の幕府の警備施設を襲撃。
水や食料を奪い、建物は焼き払われた。
幕府の役人はまともに応戦できずに退散したり捕虜になったりした。
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警備の兵は凍死
文化4年12月
幕府は「ロシア打ち払い令」を出します。
控えおろう!です。
(まだ言ってる)
真冬の知床で幕府の命を帯びた津軽藩士100名中72名が冬を越せずに亡くなりました。
栄養不足と寒さとの闘いで浮腫病(皮下・内蔵水腫、うっ血、充血、肥大)で亡くなるという悲惨なものでした。
「津軽藩士殉難事件」
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松前奉行の上申
「ロシアを怖れるに足りぬというのは潔く聞こえるが、民命が関わる浅見である。」
民命という言葉を使いロシアとの紛争で人々の生活が無為に危険にさらされる事態を回避するよう訴えました。
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レザノフたちが日本を攻撃することをロシア皇帝は許可していなかった
その頃、皇帝の許可を待たずに独断で行動したとして、主謀者たちはサハリンで投獄されていました。
当時ロシアは
トルコとの戦争(1806~12)
プロシアと同盟してフランスに宣戦(1806・8)
極東に構っている場合ではないのに余計なことをした ということで怒りを買ったのだろう。
当のレザノフは1807年 サンクトペテルブルクに向けてシベリア横断中に病死していました。
徳川幕府は知るよしもなかったが、ロシアが再び襲撃してくる可能性はなくなっていました。
(トルコ、フランス、スウェーデンがロシアと戦っていなかったら日本は危うかったんだね、幕末も明治もなかったかもしれないね。)
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幕府は朝廷の顔色を覗う前例をつくってしまう
幕府は体裁を整えて自分たちの権威を取り戻すために事件の経緯を光格天皇に報告しました。(やましいことはないぞ、恭しく天皇に報告してるぞ エッヘン)
結果的に外交については朝廷の顔色を覗うという前例をつくってしまいました。
このオウンゴール的な行為により後の大老 井伊直弼を悩ませることになりました。
(ペリー来航時に幕府は米国との国交について朝廷にお伺いを立てなければならなくなった、前例があるから。)
天皇中心の日本をつくるという尊王思想、明治維新の精神的バックボーンの形成に幕府自らが手を貸してしまいました。
(幕末・明治維新への流れはロシアとの関係が起点だったんだね)
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アメリカはロシアの事例を参考にしたのか
ロシアがされたみたいなナメたマネはさせないぞ、長崎に行って時間稼ぎなんかさせないぞ、と江戸の喉元 浦賀に軍艦4隻で現れ砲口を見せつけて脅し、再来航のときには3隻加えて7隻でペリーはやってきた。
ロシアの事例を参考にして対策を立てたのではないか。
幕府もロシアの経験があったのでアメリカの黒船に無茶な戦いをしかけたりしなかった。
日米国交樹立のきっかけはロシアがつくったとも云える。
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(なにを言いたいの?)
憲法〇〇条に書いてあるぞ、控えおろう!とやっていると憲法の失墜につながるということです。
憲法〇〇条に書いてあるぞ。日本人なのにそんなことも知らないのか。
〇〇条に書いてあるからとにかくダメ!
(上から目線 感じ悪~)
「ホント感じ悪いよね」(ポピュリストのささやき)
利用されて棄憲に手を貸してしまっています。
それではまた。