nikoichixのブログ

新聞やテレビ、本を見て思ったことを綴っています。書いてみたらこんな展開になるとは思わなかった。まいっか。

徳川家康の"とんち"にギャフン

https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/LP19YWW7J9/

三河一向一揆の和睦にあたり、 家康は一向宗に 前々の如く と約束した。

一向宗側は 前々の如く は今まで通りと受け取った。

家康は 前々 とは 寺が出来る前は野原だったのだから野原にしろ、と寺を破却した。

後年、本願寺三河一向宗に蜂起を指令したが、その時にはもう寺はなかった。

それを聞いて思った。一休さんかっ

☆★☆

家康の師の雪斎は臨済宗

家康が今川家で人質時代を過ごした時の教師役は雪斎禅師でした。

竹千代(家康の幼名)は人質とはいっても将来松平は今川方の武将として重責を担うと期待されていたのです。

☆★☆

竹千代が今川家の人質になるまで

尾張織田信秀(信長の父)が三河を狙っており、岡崎城主・松平広忠が今川家に救援を要請したため、竹千代(のちの徳川家康)を人質に受ける条件にて、松平家を支援することとしました。
しかし、織田信秀松平家の家臣を買収して、今川家に人質に出されたはずの竹千代を、捕縛してしまいます。

 

その為、雪斎は今川勢を指揮して、三河安祥城主・織田信広(信秀の庶子(側室の子、信長の異母兄)を小豆坂の戦いで攻めて捕虜とすると、織田信秀と交渉し、織田家に奪われていた人質の竹千代との人質交換を実現させて取り戻しました。
竹千代は善得寺に入り、今川義元が幼い時に教えを受けたように、雪斎による英才教育を受けました。

☆★☆

尾張を狙った雪斎

織田信秀が亡くなり後を継いだばかりの若い織田信長尾張への進出を目論み、武田信玄北条氏康を説得して同盟させると言う甲相駿三国同盟の締結に雪斎は動きます。
今川義元の嫡子・今川氏真に、北条氏康の娘・早川殿が嫁いで三国同盟を締結させましたが、雪斎は亡くなります。享年60。

その後、今川義元桶狭間織田信長に討たれます。雪斎が生きていれば違う展開、戦国時代、歴史になっていたかもしれない。雪斎あっての今川でした。

それほどの師が家康にはいたのです。

雪斎にとっても竹千代は教え甲斐のある教え子だったのでしょう。

義元の子、氏真も教えていた筈ですが家康の方が教え甲斐があったのではないか。

☆★☆

一休禅師(一休宗純)とは

室町時代臨済宗大徳寺派の僧侶、出自は後小松天皇落胤と伝えられている。

墓(御廟所)は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内庁が管理している陵墓であるため、一般人が墓所前の門から内部への立ち入りはできない。

(やっぱり皇室の縁者なんだ。)

逸話で覚えているのは、一休さんの子供時代でお寺の小僧さんの頃の話、和尚様が檀家から水飴をもらい、独り占めしようとして、一休さんを含む小僧さんたちに、これは毒だから食べてはいけない、と言いつけました。

小僧さんたちは、嘘だとわかり、食べたいなぁ、和尚さんズルいなぁ。

和尚さんが出掛けると一休さんが他の小僧さんたちを誘い、水飴を全部食べてしまいました。他の小僧さんたちはそんなことをして和尚さんに怒られないかと心配になりますが、一休さんには秘策がありました。

☆★☆

アリバイ作りのために和尚さんが大事にしている茶碗を庭の石に打ち付けて(故意に)割りました

(なんでそれがアリバイになるの?)

和尚さんが帰ってくると、一休さんが泣いています。どうして泣いているのか理由を尋ねると、「和尚さんが大事にしていた茶碗を割ってしまいました、死んでお詫びをしようと毒の水飴を全部なめたのに死ねません、えーんえーん。」

和尚さんは水飴を独り占めしようとして毒だと嘘を吐いた手前、ばつが悪くて怒るに怒れませんでした。

(毒だと嘘を吐いたばかりに大事な茶碗まで割られて。)

☆★☆

現代に例えると "以前の通りにしよう 約束しよう"

ウクライナにとってはロシア侵攻前、ロシアにとってはソ連時代に遡ることを意味します。"以前の通り"とはどうとでも取れる言い回しです。 

(それを言い出したら、ソ連時代のウクライナ共和国にクリミア半島は含まれるから返せ。)

(18世紀に遡れば、ウクライナの東部はロシア帝国、西部はポーランド王国だからロシアとポーランドで分割、16世紀に遡ればウクライナリトアニア大侯国、リトアニアは今はバルト半島だけだけど、ポーランドリトアニアも大きかったんだね、14世紀に遡ればキプチャク汗国で蒙古帝国の版図。ロシアはまだなくてモスクワ大侯国。 7月23日追記)

☆★☆

ビジネスでは前や以前云々よりも金額

前の通りと言われても、具体的な金額で見積りをとります。前っていつの前?金額は?

☆★☆

疲弊してもう終わりにしたいと飛び付いた条件には裏があります

一向宗は戦いを終わりにしたいと和睦の条件を呑みました。家康の粘り勝ちでした。休戦状態を維持したままで、如何に自分の言い分を通すかです。余りにも無茶なことを言うと休戦が破れて再び戦いになってしまいます。相手がキレないギリギリまで如何に自分の言い分を通すかです。

(相手の空気を読むんだね)

(条件を呑んでもらう代わりに、土産になる提案をして相手の顔を立てるって日本人だね。)

☆★☆

家康の旗印は浄土信仰

禅の臨済宗の僧の教えを受けた家康に念仏の一向宗(浄土真宗本願寺派)はしてやられましたが、家康は浄土信仰です。

その証拠に徳川が合戦のときに掲げる旗印は

厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)。

これは、「極楽浄土に往生する(生まれ変わる)ことを心から願い求める」という意味です。

 「私たちが住むこの世界は苦悩に満ちた穢れた世であり、それを厭(いと)い離れることを願う、心から喜んで浄土に生まれ変わることを願い求める」

 

 この言葉が使われた背景には、桶狭間の戦いで〝敗軍の将〟として生き延びた当時17歳の松平元康(後の家康)は、織田方の追っ手を振り切って、故郷岡崎の菩提寺大樹寺に逃げ込んだものの門の外まで迫ってきました。「もはやこれまで」と観念した元康は先祖代々の墓所の前で自害しようとします。

 するとそこへ寺から出てきた住職の登誉智童に自害を思い止まるよう説得され「厭離穢土・欣求浄土」を授けられ、天下泰平にまい進するよう励ましたと言われています。

 

 その言葉に勇気づけられた元康は、先祖の墓前に大願成就を誓い、そしてそれからは、いくさ場に八文字の書かれた旗印を掲げ、天下を取ったのです。

現世利益ではなく、来世利益を志向したことが拘りや迷いを断ち切り、結果的に現世で大願成就したのです。

(来年の大河の前半の見所のような気がする。)

(だから増上寺の裏門は御成門なんだね。)

御成門…将軍の参拝を受けるために迎え入れる門

☆★☆

元敵方の家臣を重用

今川家や武田家、北条家の旧臣を実力主義で取り込み勢力を拡大しました。昨日の敵は今日の友。

三河一向一揆一向宗側についた本田正信を懐刀として謀略や政治問題の解決に重用しました。

天下取りに必要なことに拘り、関係のないことには拘らなかったので、無駄に人を殺さない。逆らった者への鎮圧に拘っていたら、敵に隙を与えて攻める機会を与えてしまいます。

(元敵でも取り込むべきか、後顧の憂いを断つべきか、その選択を誤らなかったんだね。)

(許してばかりではチョロいと思われてしまう。許された相手が感謝するような、畏れさせてから許したのかな。恐怖で粛正してばかりいたらいつしか忠実な配下はいなくなる。)

☆★☆

蓮如(浄土真宗)と一休(臨済宗)

宗派を越えた交流がありました。

ある春の日、一休が蓮如を訪ねると、おり悪しく不在だった。一休は勝手に上がりこみ、待っている間、本堂に入って手ごろの仏像(阿弥陀如来)を一つ持ち出し、これを枕にして昼寝してしまった。やがて蓮如が帰って来て、「これこれ、わしの商売道具を台なしにしたな」と言い、二人で腹をかかえて大笑いした。

(建前に拘らずに商売道具と言ってしまうなんて。それを一緒に笑う一休さん、二人とも偶像崇拝の気なんてなかったんだね。)

(偶像を崇拝しないけど偶像を禁止するわけではない、単純ではないね。)

家康は禅僧の教えで念仏衆を抑えたけど、念仏の教えは否定しない。単純ではないね。