nikoichixのブログ

新聞やテレビ、本を見て思ったことを綴っています。書いてみたらこんな展開になるとは思わなかった。まいっか。

主砲弾を撃ち込まれても誘導徹甲爆弾艦底貫通からも生還した英戦艦『ウォースパイト』―また最も多くの主砲弾を発射した戦艦

WARSPITE―戦争を軽蔑する 

 

こういう名前を戦艦につけるとはなかなかにひねています。

クイーン・エリザベス、キングジョージ5世、ネルソン(英)、ビスマルクシャルンホルストグナイゼナウ(独)、リシュリュー、クレマンソー、ジャン・バール(仏)といった人名をつけることが多い欧州戦艦の中でも異彩を放っています。

日本、アメリカなら大和、武蔵、長門ウェストバージニアアイオワサウスダコタと地名を付けます。

 

チャーチル肝いりの戦艦であった。

 1912年(日本では明治45年7月30日 明治天皇崩御 大正元年となります。CHINAでは孫文中華民国の臨時大統領となり宣統帝が退位し清朝の終焉、袁世凱大総統に就任しました。時代の変わり目でした。 タイタニック号が沈没した年でもあります。) 海軍大臣 ウィンストン・チャーチルは建造を計画している5隻の戦艦に各国に先んじて強力な武器15インチ砲を搭載することを決定した。(従来は13.5インチ砲)

 

従来の戦艦のレイアウトは5砲塔10門でした。砲塔を艦橋の前方艦首甲板に砲塔を2基、中央煙突方法に1基、後部甲板に2基配置しました。砲弾の重さは635キロでしたので10門の発射で6,350キロでした。

15インチの場合は砲弾の重さは870キロ、煙突後方の砲塔をなくして4砲塔8門にしました。艦首甲板と艦尾甲板に2基ずつです。第二次大戦の戦艦で見られるスタイルになりました。

870×8=6,960キロで13.5インチの従来艦を上回ります。

煙突後方の砲塔をなくしてボイラーを増やし25ノット(1ノット=時速1.852キロ 時速46.3キロ)と従来の戦艦を3ないし4ノット上回る速度を実現しました。

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ノルマンジー上陸作戦から終戦まで1586発の主砲弾をドイツ軍陣地 要塞に撃ち込む。

 

上陸地点 6月6日 スウォード・ビーチ 314発

6月9日 ブルービーチ 96回の斉射 96×6門 576発、   

6月11日 ブルターニュ半島ブレスト 50回の斉射 50×6門 300発

8月24日 213発

ル・アーブル 183発

1944年11月1日 オランダ海岸 ワルヘレン島に取り残されたドイツ軍に対する砲撃で353発を撃ち込みウォースパイトは戦闘を終えた。

第一次第二次世界大戦を通して海戦と陸上艦砲射撃で3455発を超える主砲弾を発射した。

最も大量の主砲弾を発射した戦艦であった。

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3455発以上の主砲弾発射

 

対ドイツ海軍 北海

ジュトランド沖海戦 259発

ナルヴィク海戦 134発

 

対イタリア海軍 地中海

カラブリヤ沖海戦 37回の斉射 37×8門 296発

マパタン岬海戦 60発

 

対イタリア陸軍

パルティア砲撃 136発

 

対ドイツ陸軍

クレタ島トリポリ砲撃 135発

 

これにノルマンジー上陸作戦から終戦までの1939発を足すと計3455発になります。

※海戦は対軍艦、砲撃は陸軍支援。

3455発×870キロ=3005850キロ 計重量 約3006t (3000トンでGoogle検索すると護衛艦、巡視船、潜水艦がヒットします。)

 

ジュトランド海戦で29発の命中弾を受ける。

 

第一次世界大戦中の1916年5月31日 デンマークのジュトランド半島沖で英独の艦隊決戦が行われた。

双方で202隻の艦船が撃ち合うという史上最大の海戦であった。

イギリス海軍 戦艦・巡洋戦艦37隻、巡洋艦駆逐艦105隻

沈没 巡洋戦艦3隻、巡洋艦3隻、駆逐艦8隻、計14隻

 

ドイツ海軍 戦艦・巡洋戦艦21隻、巡洋艦駆逐艦97隻

沈没 戦艦1隻、巡洋戦艦1隻、巡洋艦4隻、駆逐艦5隻、計11隻

 

結果的には痛み分けであったが双方が勝利を主張した。この後ドイツは制海権を争うことがなくなり通商破壊を行うことが艦船の役割となった。

ウォースパイトの被害

 

乗員1048人、死亡14人、負傷17人 29発(内18発は大口径弾)の命中弾を受けたにも関わらず戦闘能力は致命的に損なわれなかった。

大口径弾は15センチ、23センチの厚さの鉄板をも貫通した。

“小口径弾が”士官用食堂兼談話室“を突きぬけて船腹から飛び出していった“。

“医務室にかなりの損害を与えて船内を横断していった。“

(こういう記録の残し方をするとは、ひどい状況でもユーモアを忘れないイギリス人)

“電線の鉛の覆いが溶けて落ちてきたので消防隊はダッフルコートを着なければならなかった。”(頭を守るためにフードが必要だから)

ウォースパイトは舵が故障してドイツ艦隊の前で円運動を行って命中弾を受けた。

“ウォースパイト死の行進“と呼ばれた。

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フィヨルドに突入

 

1940年4月9日

ドイツの大型駆逐艦10隻が2000人の兵士を輸送してフィヨルドを抜けてノルウェーのナルヴィクに軍隊を上陸させ制圧した。

最初イギリス海軍は5隻の駆逐艦で攻撃を仕掛けて2隻の駆逐艦と6隻の輸送船を沈めたが、残りの8隻に追撃されイギリス側は2隻が沈没(作戦の指揮官は戦死)し1隻がかなりの損傷を受けた。

空母の艦載機で攻撃を試みるも低い雲と吹雪で命中弾はなく失敗に終わった。

イギリス海軍本部は狭いフィヨルド駆逐艦を随伴させて戦艦を突入させることを命令した。

 

ウォースパイトの主砲、副砲の砲撃と駆逐艦の攻撃で8隻の駆逐艦はすべて撃沈された。(4隻は座礁したり、フィヨルドの先端の海岸に乗り上げた後自沈した)

“ケルネルは文字通り木端微塵に吹き飛ばされ、傾いて沈んだ。”

“ウォースパイトの砲弾はギーゼを燃えて沈む残骸に変えた。”ギーゼの艦長は総員退艦の令を出した。

その結果ドイツ軍の上陸守備隊は孤立した。

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21キロ先の敵戦艦に主砲弾を命中させる。

 

1940年7月7日  

カラブリア沖海戦

イタリア海軍 戦艦2隻、巡洋艦16隻、駆逐艦32隻

イギリス海軍 戦艦3隻、巡洋艦5隻、駆逐艦17隻、※空母1隻

※イタリア側は本土から航空機を飛ばせる位置なので空母の存在は有利とは言えなかった。

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イタリア空軍の爆撃機から7回の攻撃

 

120個の爆弾が投下され、ウォースパイトはマストよりも高く上がった水柱に囲まれたが、無傷で抜けてきた。

(何という強運!)

 

 “16:00 敵の先頭の戦艦ジュリオ・チェザーレへ距離23700メートルで発砲した。”

“敵の戦艦の煙突の基部に激しい爆発が起こり、大きなオレンジ色の光が閃いた。続いて煙が湧きあがり、それで21000メートルという驚異的な距離で命中したことが判明した。”

(砲弾命中最長距離の記録であった。)

ジュリオ・チェザーレの6つのボイラーは使用不能となり2隻の戦艦は回頭して煙幕を張り逃走した。

“イタリア艦隊はこの後、二度とふたたびイギリス戦艦の砲火に立ち向かおうとはしなかった。”

 

クレタ島沖で最大の人的被害

 

1941年5月22日 3機のメッサーシュミット MEー109戦闘爆撃機が高度240メートルで距1800メートルのところへ近づくまで発見されなかった。

距離450メートル、高度150メートルから爆弾を投下した。

2つの爆弾は外れたが、3つめの500ポンド(230キロ)徹甲爆弾が45度の角度で甲板を突き抜けて艦内で爆発し右舷の4インチ、6インチ砲を損傷させ、27メートルの長さにわたって裂け目が開いた。メッサーシュミットを発見してから爆弾が命中するまで10秒しかなかった。

火災のため多数の死傷者が出た。38人が即死か負傷して後死亡、31人が負傷した。

 

シアトルでの改装

 

アレキサンドリアギリシャ)で応急処理を施して本格的な修理はアメリカのシアトルで行う手配がなされた。

スエズ運河を通り太平洋を横断してシアトルに向かった。

ウォースパイトはアメリカで水上探索レーダー、対空探索レーダー、水上射撃レーダーシステムを装備した。0.5インチ機関銃を撤去し代わりに20ミリ機関砲が装備されて対空砲火が強化された。

1941年12月28日 ふたたび就役した。太平洋戦争戦争が勃発していた。

1942年1月7日出港、太平洋を横断し1942年3月22日インド洋のセイロンに到着し東洋艦隊旗艦に着任した。

1942年6月4日 ミッドウェー海戦の結果(日本は空母4隻喪失)、シンガポールより西に日本の機動部隊が進出するおそれがなくなったため、1943年3月 本国に戻るよう命じられた。この間、日本軍と戦う機会はなかった。

 

フリッツXが襲う 

 

 

1943年9月15日 ウォースパイトは連合軍のイタリア西岸サレルノへの上陸支援に際して艦砲射撃を行った。

ドイツ軍が丘に設置した重砲が浜辺に上陸したアメリカ軍を砲撃しているため、戦艦での制圧を求められた。

独伊軍陣地に向けて30回の斉射×8門(240発)、翌16日には256発の主砲弾を発射した。

“砲弾はアメリカ軍の上をつんざくように飛んで敵の弾薬集積所で爆発した。”

米軍 “効果的な支援に感謝する。海岸にいる部隊に大変な助けになる。”

 

囮の急降下爆撃機

 

12機のフォッケウルフFW190戦闘爆撃機が太陽を背にして急降下爆撃してきた。

猛烈な対空砲火で追い払った。しかしこの攻撃は上空6000メートルにいるドルニエDO217爆撃機の存在を隠すための陽動であった。

3つの黒い物体が非常な速さで落ちてきた、無線誘導爆弾フリッツXであった。

9月9日に脱出したイタリア戦艦ローマを一発で爆沈させた恐ろしい武器であった。(甲板を貫通して弾薬庫で爆発した)(連合軍の戦利品にさせまじと沈没させた。)

 

投下した母機からの無線誘導で目標に命中させる徹甲爆弾で総重量1360キロ、爆薬量270キロ、弾着時の速度は音速に近いものとなり甲板から貫通して艦底に達するという恐るべきものであった。

 

“1つめは煙突のすぐ後ろのボート甲板に命中して、左舷の格納庫・士官室の調理室・機関員の後部居住甲板・衣類格納庫・第4ボイラー室を突き抜けて、二重底の予備給水タンクで爆発した。底には長さ6メートル以上、幅2メートルから4メートルの穴が開いた。

2つめは右舷の第五ボイラー室の約2メートル横、バルジ(舷側装甲外部に設けられた出っ張り、中は空洞で魚雷や水中被弾の被害を軽減する役目がある)の下端の深さのところで爆発した。艦底の内と外の鉄板にしわが寄り、バルジの被覆に穴が開いて歪んだ。

3つめは海に落ち右舷10メートルの位置での至近弾となって爆発した。

第二~第六ボイラー室は水浸しになり、第一ボイラーに海水が混じり蒸気がすべて止まってしまった。

 

5千トンの海水を飲み込んだウォースパイトは操艦不可能になり、掃海されていない機雷源へと流されていった。

 

レーダーは作動しなくなり、油圧がなくなったため15インチ砲も作動しない。

対空砲火とディーゼル発電機は健在であったが、いつまた航空機やUボートの攻撃を受けるかわからない。

(爆撃機もUボートも襲ってこなかった、止めを刺したと思ったのか)

天気がよく、浸水もあるところで防止され、操舵装置は系統を切り替えることで修復していた。

米軍のタグボートが救援にやって来た、一隻が激しくぶつかった。(流されるウォースパイトを押しとどめようとしたのか)

甲板から誰かが叫んだ「これ以上穴を開けるなよ。もう充分開いているんだから。」

(ひどい状況でもユーモアをかます)

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何百人もの乗組員がポンプとバケツを使って浸水がこれ以上広がらないように働いた。

 

事態をさらに悪くしたのは飲み水がなく、非常に限られた量のレモネードしかなく、食べるものもビスケットとコンビーフしかなかったことである。

「だれも持ち場から離れず、爆弾が命中してから全員が働きづめで、大砲や機関銃の持ち場にいるか、ワイヤーロープを引っ張っているか、つっかい棒をするか、ポンプで排水するかしていた。

乗組員は座って休みをとり始め、そして座ったままで眠りに落ちていた。

しかし全員驚くほど元気でやる気があり、事態をやむをえないこととして受け入れていた。

乗組員が甲板で裸になって舷側から汲み上げたバケツの海水で、お互いの体を洗っているのを見た。この暑さの中、バケツで水を汲みだすのは重労働だった。およそ二百人の水兵が、ずっとそれに従事していた。」(H・A・パッカー艦長 1943年3月31日着任、10月12日離任)

 

死亡12人(3人はドックで修理のため排水した時に発見された) 14人負傷 

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4隻の駆逐艦を随伴してジブラルタルイベリア半島の先端)に回航された。航行可能な状態に修復するのに4ヶ月間を要した。

本格的な修理を受けるためにイギリス本国に戻ったのは1944年3月であった。

 

ジブラルタルから本国に向かう際、67676人の兵隊を輸送する護送船団と合流した。

護送船団の指揮官はウォースパイトの実情を知らなかったので頼もしい護衛がついたと喜んだ。実態はウォースパイトが護送船団に護衛されていた。

 

ウォースパイトにはノルマンジー上陸作戦のドイツ軍陸上基地砲撃の任務が課せらているため修理は暫定的なものとなった。

3番砲塔、第四ボイラーは使用不能のままでの出撃となった。

1586発の主砲弾をドイツ軍陣地 要塞に撃ち込む返礼を行った。

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1945年2月 予備艦に編入

1946年8月 解体が決定された。

イギリス戦艦の中でもっとも有名なウォースパイトを軍艦の記念館として保存しようという声が起こった。しかし残念ながらその声は無視された。

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1945年の総選挙で保守党は敗れて労働党政権となりチャーチルは下野した。

 

戦争は終りました。チャーチルさんお疲れ様でした。という民意でした。

戦勝に熱狂してチャーチル政権勝利とはなりませんでした。

何てクールというかドライというか したたかな民意でしょう。

保守党政権だったらウォースパイトは記念館として残っていたんじゃなかろうか。

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1947年7月に解体のため曳航中に座礁した、強風で煽られて錨を引きちぎって流されて岩礁に乗り上げた。ウォースパイト最後の抵抗なのか。

船体の被害はひどく再浮上させることは不可能であったため、岩礁の上で解体が行われた。完全に終わるには1956年までかかった。

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なんで戦艦のブログを書いたのか。

前回はチャーチルの不屈、今回はウォースパイト乗組員の不屈。

不屈がテーマです。

それではまた。

 

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EU離脱を表明した英国の迷走ぶりが舵が故障したウォースパイトと被ったからです。

英国は大西洋を挟んで米国と欧州を結ぶ橋頭保であり、日本は太平洋を挟んで米国とアジアを結ぶ橋頭保になる位置にあります。

 

トランプ次期大統領は外の世界のことに構わない、アメリカは手を引くといわれています。が、

世界中に展開するアメリカ企業を見捨てるか?米国人の権益を見捨てるか?

米国の国益が第一ならその選択肢はない。

国際秩序の中で橋頭保の役割が大きくなる。

米露中とのパワーバランスの中でEUが立ちまわるためには英国がEU離脱をするからといって蔑(ないがしろ)にすることが得策とは思えない。

 

それではまた。

 

 

戦艦ウォースパイト―第二次大戦で最も活躍した戦艦

戦艦ウォースパイト―第二次大戦で最も活躍した戦艦