nikoichixのブログ

新聞やテレビ、本を見て思ったことを綴っています。書いてみたらこんな展開になるとは思わなかった。まいっか。

デビューしてすぐラスボスと対決という不運―奥州藤原氏の最期

経験値を重ねないうちにいきなりラスボスが現れる。

こんなの無理!ラスボスじゃなくてファーストボスじゃないか。

ゲームではなくても現実では起こりえます。

 

※ラスボス:最終局面(ラスト)で現れるボスキャラクター

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源義経が兄 頼朝との不和から殺されたという話は有名ですが、実際に直接手を下したのは頼朝やその配下ではありません。奥州藤原家でした。

 

頼朝の意を受けた後白河法皇義経をかくまっている奥州藤原家の4代目藤原泰衡に 義経の身柄差出を命じる院宣を出し、文治5年(1189)4月30日、泰衡が衣川館にいた義経を襲撃して自害に追い込む事件が起こります。

身柄差し出しを命じているのであり、殺せとは言っていないのに結果的に死なせてしまいました。

 

なぜ襲撃という手荒なまねをしたのか。

義経が大人しく投降するわけはないからと重装備大人数で押しかけたら、事の成り行きで戦いになってしまったのか。

頼朝が自ら手を下したい(鎌倉で処罰したい)のに余計なことをした という話になってしまいました。

 

それとも実は大芝居で義経を逃がしたのか。(そういう伝説もあります)

逃げて逃げて北海道まで逃げて もうこりごり政(まつりごと)には一切関わらないと隠棲してしまったのか。

 

吾妻鏡」は鎌倉幕府側の記録で鎌倉幕府の正当性を顕すための勝った側のプロパガンダということが想定されるので、本当に義経、泰衡が愚かだったのかはわかりません。

勝たなきゃ意味ない。負け=愚か という考えには同意できません。

※注 最近の研究では今のかたちに編纂させたのは家康だった。豊臣政権の大名の頃から写本を集めつなぎ合わせて編纂させ、頼朝がどうやって関東をまとめあげ、政治基盤を築いていったのか研究し豊臣政権に代わる準備を怠らなかったという。(日本史のツボ 文春新書 本郷和人著 146頁)

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3代目当主秀衡の死去から跡を継いでわずか1年半後に難敵(頼朝)に対応しきれなかったのは運が悪いと思う

 

織田信長が父信秀から跡を継いで(1551)今川に攻め込まれたのは9年後(1560)でした。

20年間も監視される生活を送ったらそりゃ疑い深くもなるだろうという頼朝を相手にしなければならないという不運。

家康は人質生活11年間1549~1560)頼朝は20年間 年季が違います。

泰衡に思わず同情したくなってしまいます。

 

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強力な参謀が必要です

 

デビューして1年半でラスボスに対応しろなんて無理。

伊達正宗だって家督を継いで(1584)から豊臣秀吉の圧力がかかるのは(1589)5年後です。

同情を禁じ得ません。

よほどの人物がいなければ太刀打ちできません。

 

ん いるじゃない。

義経がいるじゃない。

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藤原氏の存在は鎌倉にとって脅威

 

泰衡が義経を襲撃してからわずか5カ月足らずの9月3にの奥州藤原氏は滅亡します。(泰衡、家臣河田次郎の裏切りにより自害)

義経は口実に過ぎず、頼朝の目的は鎌倉幕府の背後を脅かす奥州藤原氏の殲滅にあり、朝廷に泰衡追討の宣旨を求めました。

 

奥州への対応を巡って朝廷と幕府の見解は分かれました。朝廷側はどちらが勝つかわからないと両天秤をかけていたのかもしれません。

煮え切らない朝廷に見切りをつけて、待ってられるか、絶対に殲滅すると、頼朝は宣旨によらず自ら軍を率いて出陣して奥州藤原氏を滅ぼしました。(頼朝の勝利を見届けてからのように後白河法皇は泰衡追討宣旨を下して頼朝の軍事行動を追認)

 

鎌倉と平泉は並び立つことは許されない間柄でした。

 

どちらかが生きるか死ぬかでした。

必ず対決の日が来ると読んで3代目当主秀衝はお尋ね者の義経を受け入れたのではないか。

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義経率いる平泉軍に鎌倉軍が翻弄されてなかなか決着がつかないと朝廷側は模様眺めを始めて両天秤にかける。そこに藤原家の勝機がある。

文治3年(1187)10月 秀衝死去

秀衝の死による藤原家の動揺を見透かすように翌文治4年2月 頼朝の配下法師昌導が攻めてきますが出羽で義経に迎撃されて鎌倉に敗走する事件が起こります。

昌導の敗走を受けて頼朝は後鳥羽法皇義経の身柄差出を命じる院宣を求め、院宣が下されて受けた泰衝が義経を襲撃する事件が起こります。

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頼朝には藤原家を滅ぼず以外の選択肢はない 

どんなに尻尾を振って来ても許す気はない。

ということは藤原家には鎌倉政権を倒す以外に生き残る道はない。

 

泰衝は頭がいい(お利口)からそんなことは無理だと思ったのではないか。

お利口だから 後白河法皇の取りなしで収まると思ったのではないか。

結果を知っている私は言いたい「無理無理無理無理ダメダメダメダメ」

そんな考えは いざという時以外にしか役に立たない。

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実は先が読めたのではないか

 

どんなに義経が超人的で獅子奮迅の戦いをしても多勢に無勢、最終的に敗れると思ったのではないか。

戦が長引けば奥州の田畑が荒れ、民が大勢殺されると思ったのではないか。

 

頼朝と対決するなら天下を取る覚悟がいる。その覚悟がないのに本気で戦うと奥州の民が大勢無駄死にすることになる。

頼朝の目的は藤原家の殲滅で奥州の民の殲滅ではない。

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時は下って

徳川慶喜も戦う意味がないと見切ったのではないか

 

徳川慶喜鳥羽伏見の戦い幕府軍薩長に敗れると大坂から軍艦で江戸に戻ったのは、先が読めるから徹底抗戦しても犠牲が増えるだけで却って外国の介入を招くからやる意味がないと思ったのではないか。

 

薩長は徳川家を滅ぼさなかったが、頼朝は平氏と藤原家を、家康は豊臣家を滅ぼした。

単に時代の違いだけなのか。

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宿敵 尼子氏を滅ぼさなかった毛利元就

 

尼子氏は毛利家の家来になることで生き延びました。

織田家徳川将軍家の配下(信長の二男 信雄の家系は小藩の大名)になることで生き延びました。

 

 

豊臣家は徳川家の家来になるという選択ができなかった。

頼朝は自分の成功体験故に、頼朝を処刑しなかったばかりに平氏が滅んだ故に、藤原家を存続させる選択肢はなかった。

 

でもそういう容赦のないことをした因果で源氏の鎌倉将軍は3代で終わって北条氏に乗っ取られたのだと思う。

 

それではまた。